成毛 滋 (なるも しげる)

ギタリスト/キーボーディスト。

日本のロック・ギターの草分け的な存在だったギタリスト。

47年1月29日生。東京出身。通称:Dr. Siegel。

中学生の時に62年「The Cool Boys」というバンドを初めて組み、慶応高校に入った63年に「The Savage(寺尾聡のいたGSバンドとは別)」というバンドを、次に「The Blue Sounds」を結成する。 この「ブルー・サウンズ」が64年に「ザ・フィンガーズ」となる。65年には当時盛んだったバンド・コンテストに参加して賞を総ナメにし、66年のフジ「勝ち抜きエレキ合戦」でグランド・チャンピオンとなる。 フィンガーズには、成毛の他、後に音楽プロデューサーとなった高橋信之(高橋幸宏の実兄)や、蓮見不二男(クリストファー・リン)等が在籍していた。

67年3月にテイチク/ユニオンからシングル「灯りのない街」でデビュー。エレキ・インストバンドから後にメンバーチェンジを行いソフト・ロックへと路線を変えるが、商業的成功は収めずに6枚のシングルとアルバム1枚をリリースして69年8月に解散。
「ロック画報」第7号収録のインタビューで、成毛は 「あの頃グループ・サウンズは200以上あったんですけれど、そのほとんどのレコードを、7、8人で弾いているんです。 どのバンドでも弾いているのは同じ。 ドラムは石川晶さん、田畑貞一さん、ベースは江藤勲さん、ギターは水谷公生か僕が一番多かった。 オルガンはミッキー吉野、柳田ヒロ」と語っている。

成毛(とフィンガーズのシー・ユー・チェン)はフィンガーズ解散後、アメリカへ旅行し、「ウッドストック・フェスティバル」を見る。日本に戻った成毛は、日本版ウッドストックとして10円コンサートを主催する。 70年2月に「駄バンド」でドラムを担当、同年6月にはつのだひろ、柳ジョージと「ジプシー・アイズ」というバンドを組む。 70年11月にはマーティン ・ウィルウェーバーと「成毛滋グループ」を、そして71年2月にはつのだひろとユニット「ストロベリー・パス」を組む。これは柳ジョージが「ザ・ゴールデン・カップス」に在籍していたためで、柳ジョージが参加出来た時はこれがジプシー・アイズとなった。

ストロベリー・パスは71年6月にシングル「メリー・ジェーン」、とアルバム「大烏が地球にやってきた日」をリリース、同年9月にはベースに当時高校生だった高中正義を加え「フライド・エッグ」を結成する。

フライド・エッグは72年4月にアルバム「ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン」をリリースするが、同年9月には日比谷野音でのライヴとスタジオ録音を合わせたアルバム「グッバイ・フライド・エッグ」を残して解散。 その後成毛は柳ジョージを連れて渡英、2年半イギリスに滞在する(柳はしばらくして帰国した)。 75年に帰国しジプシー・アイズの再結成を図るが、柳ジョージはレイニー・ウッド、つのだ☆ヒロはスペース・バンドを組んでいたため、やむを得ずセッションという形でライヴやアルバム録音を行った。 しかしこれはレコード会社の理解が得られずリリースに至らなかった。 このセッションでは、柳ジョージ(Vo. Slide G. )、つのだ☆ひろ(Dr.)の他、Keyboardsに上綱克彦、ベースに宮田和昭や江藤勲が参加していたとのこと。  また、ストロベリー・パスやフライド・エッグの曲の歌詞は、後期のフィンガーズノメンバーだった蓮見不二男(クリストファー・リン)が書いており、名曲「メリー・ジェーン」も蓮見の作詞によるものである。

 70年代前半にはグレコのアドバイザーも務め、ギター付属のソノシートや教則本も製作した。72年と73年には「ミュージックライフ誌」のギタリスとの人気投票で2年連続1位になる等、当時のロック少年にとっては成毛の存在はインパクトの強いものだった。

 70年代後半以降はシンセやギターを多重録音したサウンドでCM等の音楽製作やラジオでのギター講座をしていたが、音楽業界と対立することが多く、正式なレコードの形でリリースされたのはストロベリー・パスとフライド・エッグの合計3枚のアルバムだけである。 成毛の話によれば他に成毛のソロ名義でリリースされたアルバム類は全て成毛の関知していないところで出されたインチキなもので、本人がごく一部でしか参加していないものである。 80年代はカメラマン等、音楽以外のところで生計を立てていたこともあるらしい。

成毛の演奏スタイルとして画期的だったのは、ギターを左手のタッピングで弾き、右手でキーボード、足でフットペダルと、一人三役をこなすというもので、この他にも70年代半ばのモノフォニック・シンセしかない時代に、ライヴで冨田勲作品に挑むなど、常に既成の枠にしばられないスタンスを目指していたが、音楽ビジネスとは全くかみ合わないキャラクターのため、演奏の機会は極めて限られていた。

90年代半ばになり、BOSSのDR-5を使用してギター以外を打ち込みにしたサウンドを確立するが、「打ち込みにギター1本」ではライヴハウス等で演奏させてもらえず、目黒の「ザ・サウンド・ステーション」等限られたステージ活動のみになる。 94年には香港のヴォーカリストのジョニー・葉(イップ)と組んでライブをやるが、ジョニー帰国後はまた成毛+DR-5で演奏をすることになった。 98年4月27日にはギタリスト佐藤央爾とジョイントで目黒ザ・サウンド・ステーションにてライヴを行う(演奏はDR-5)。 しかし、その後体を壊してギターが弾けなくなったため、音楽活動から退いたとのこと。

2007年3月29日にがんで永眠されたとのこと。 ご冥福をお祈りします。

 

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