エディ藩 (えでぃ ばん)

ギタリスト。

ザ・ゴールデン・カップスのギタリストとして、60年代後半のグループ・サウンズ・ムーヴメントのハードな部分を支えていた。 
70年代はエディ藩グループやエディ藩&オリエント・エクスプレス等を率い活動し、80年代初にはクリエイションと共に松田優作のサポート等も行っていた。
横浜を唄った名曲「横浜ホンキー・トンク・ブルース」の作曲者でもあり、今や横浜の誇るブルース・ギタリストである。

47年6月22日生。 横浜出身(香港説・台湾説もあり本人も定かではないらしい。国籍は中国)のAB型。
愛称:コーチャン。 エディというニックネームは、カップスが「全員ハーフのバンド」として売り出すために、インターナショナル・スクール時代に受けた洗礼名「エドワード」から取ったもの。

本名:藩広源(ばんこうげん/「ばん」は本当はくさかんむりがつかない「潘」らしい)。カップスのメンバーは全員ハーフと言われていたが、彼は中国人(いわゆる華僑)でハーフではない。

横浜の中華料理店「鴻昌(こうしょう)」の息子で、 店の隣が米軍将校相手のバーだったため、早くからアメリカン・ミュージックに触れて育つ。 中学生の時に後にゴダイゴのプロデューサーとなるジョニー野村と出会い、「シャドウーズ」を結成、これが「ザ・ファナティックス」となるが、バンドは分裂してジョニーは脱退する(しかしその後も ジョニーとエディとの交友は続いていた)。

GS関係の評論で知られた故 黒沢進氏によれば、関東学院高校在学中は黒人を中心としたR&Bバンドで活動していたが、インターナショナル・ハイ・スクール (ジョゼフ校)に転校してザ・ファナティックスを結成したことになっている。ファナティックスでは当初サイド・ギターだったらしく、この頃に一時デイヴ平尾が在籍していたこともある。
ファナティックスはやがて横浜を代表するバンドとなったが、高校卒業を機に解散、66年後半にはアメリカを3ケ月程 旅行していた。この時、アメリカン・ロックに大きな影響を受け、ミュージシャンになることを決心する。 このアメリカ放浪中、ライヴハウスで偶然デイヴ平尾と再会した。

デイヴ平尾は帰国後に本牧のクラブ「ゴールデン・カップ」に出演することになり、自己のバンド「スフィンクス」を解散して、新バンド結成のためエディに声をかける。 こうして66年12月に元「スフィンクス」のデイヴ平尾とマモル・マヌー、元「テイク・ファイヴ」のルイズルイス加部とケネス伊東、そしてエディ藩の5人で「ゴールデン・カップ」のレギュラー・バンドとして「平尾時宗とグループ・アンド・アイ」が結成 された。
同バンドは当時として非常に新しいR&Bをメインにしたバンドとして、高い評価を浴びる。このバンドが67年6月にメジャー・デビューして「ザ・ゴールデン・カップス」となる。

カップスは68年3月にシングル「長い髪の少女」が大ヒットしアイドル的な人気を得るが、一方アルバムやライヴでは渋い選曲と確かなテクニックで一目置かれる存在となる。  カップスの前半において音楽的主導権を握っていたのはエディ藩らしく、カップスのサウンドも当初のソウル/R&Bからホワイト・ブルースへと志向が移っていったらしい。 69年4月にはカップス(MarkIII)をケネス伊東と共に脱退し、「エディ藩グループ(第一次)」を結成する。 当初のメンバーはこの二人に柳田ヒロとエディ・フォルトゥノだったが、69年秋にはフォルトゥノがアイ高野に交代する(第二次)。

しかし69年末にゴールデン・カップスからルイズルイス加部、マモル・マヌー、林恵文が脱退したため、エディ藩・ケネス伊東・アイ高野の3人は70年初にザ・ゴールデン・カップスに合流する。 その後もメンバーの変遷を経て、ザ・ゴールデン・カップスは72年1月に解散する。

解散後、エディは再びエディ藩グループ(第三次)を組み、72年末のフラッシュ・コンサートにも出演する。
73年末まではまだエディ藩グループを名乗っていたが、74年初のライブでは「エディ藩&オリエント・エクスプレス」になっている。このバンドは通常のロックバンドの編成にブラスを加えたもので、マイク・ブルームフィールドとエレクトリック・フラッグの様なR&Bファンクのスタイルを追求したものだった。 オリエント・エクスプレスは74年にアルバム「その1」とシングル「9 O'clock」をリリースするが、75年には解散した。 この頃のライヴで大きいものとして、74年の「(郡山)ワン・ステップ・フェスティバル」への出演が挙げられる。これは永らく伝説的なコンサートとなっていたが、2005年初についにライヴ・アルバムでリリースされることとなった。

76年には「エディ藩とスーパーセッションバンド」名義でアルバム「ベイサイド・スウィンガー」とシングル「バック・トゥ・チャイナタウン」をリリースする。このスーパー・セッション・バンドとは、実はデビュー時のゴダイゴからタケカワユキヒデを除いたものに、パーカッションとしてオリエント ・エクスプレスのゲーリー渡辺を加えたという構成である。

80〜81年は竹田和夫&クリエイションと組んで松田優作のレコーディングやライヴのサポートを務める。松田が唄った「横浜ホンキー・トンク・ブルース」はエディ藩自身もシングルとしてレコーディングしており、彼の代表作となっている。
82年には竹田和夫のサポートでアルバム「Blue Jade」と「ネオン・シティ」を 相次いでリリースしている。 82〜83年には、これらのアルバムからのシングル・カットで「ルート66」、「スーザン」、「横浜ホンキートンク・ブルース」、「ハート・エンド・ソウル」と続けざまにリリースする。

その後は表立って音楽活動をせず、実家の「鴻昌」を継いでいたが、90年代半ばから横浜の関内で当時友人達と経営していたライヴハウス「ストーミーマンデー」 での活動を再開した(ストーミーマンデーは今も健在だが、エディは経営から退いている)。

97年に「横浜ジャズプロムナード」にロック勢として初めて出演、同年根岸外人墓地について歌ったシングル「丘の上のエンジェル」を久々にリリースした。 98年には加部正義(つまりルイズルイス加部)、吉野大作、「中村裕介&F.E.N」ら共に「Born in Blues City」を製作し、横浜7thAvenueで発売記念ライヴを開催した。 その後も「中村裕介とROXVOX」や森園勝敏等と共演、 99年12月には台湾震災復興チャリティ・コンサート「エイドフォーモサ・99」にジョー山中、中村裕介、李世福、原田芳雄、ゴダイゴ等と共に参加した。

99年の「天使はブルースを歌う」は作家の山崎洋子が書いたノンフィクションだが、同氏とエディ藩の交流がテーマの重要なポイントのひとつになっている。

2003年にはドキュメンタリー映画「ザ・ゴールデン・カップス ワン・モア・タイム」のためにザ・ゴールデン・カップスが再結成され、コンサート、テレビ出演等をこなす(映画と同名のライヴ・アルバムもリリースされた)。 カップスとしての活動は04年10月15日の渋谷公会堂でのコンサートで一段落するが、その後も着実にライヴ活動を続けている。 04年11月14日には横浜ブリッツのこけら落とし公演での「バック・ベイ・ブルース・セッション」(ミッキー吉野がバンマス)に出演した他、12月には本牧ゴールデン・カップでのソロ・ライヴも大成功を収めた。

04年11月にRoxvoxを従えてアルバム「Another Better Day」をリリースしている。

「鴻昌」は2006年に閉店し、エディは本格的に音楽活動を再開、主に中村裕介やROXVOXとのライヴでの共演を中心に活動している。

2007年6月22日にはエディの還暦とデビューエディ藩 デビュー40周年を記念してライヴ「60-40 Special」を横浜ブリッツで行い、盟友の中村裕介&ROXVOXを始めザ・ゴールデン・カップス時代からの付き合いである柳ジョージやミッキー吉野ら豪華なゲストを迎え、大成功を収めた。 また、これに合わせて3年振りのアルバム「60-40スペシャル」をリリースした。

エディ藩的電脳主頁(EDDIE BAN WEB SITE)

ザ・ゴールデン・カップス公式サイト

 

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